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【わくわくキャリコン図鑑】第七回 佐々木さん

佐々木さん

第七回目のわくわくキャリコン図鑑は佐々木(ささき)さんです。

教員として30年勤め上げ、現在も非常勤で教壇に立つ佐々木さん。人生の節目にはいつも人とのつながりとご自身の行動力がありました。「今、心から幸せ」という笑顔に至るまでには、どんな人生があったのでしょうか。人を大切にし、人に支えられてきた佐々木さんの変遷とキャリアについてお話を伺いました。

大学卒業とライフステージの変化

卒業後は大手百貨店に就職。百貨店を選んだのは、「事務は向いていないから」。1980年代は、女性の社会進出を世間が後押ししていて「女の時代」とも言われていました。その百貨店も女性向けの制度が充実していて、要職に女性を登用するなど時代の先端を進んでいたので、私もそこでバリバリ活躍しようと意気込んでいました。

百貨店での仕事は面白かったです。若者向けの紳士服売り場で、売上と在庫管理も任されるようになりました。数字の重圧はありましたが、それはむしろやる気につながり、毎日充実していました。しかし4年ほど経って仕事にも慣れてくると、最先端の情報を入手して発信し続けることに次第に疲れ、疑問を感じ始めました。ちょうどその頃結婚・出産が重なったこともあり、退職を決意し専業主婦になりました。

子育ての時間は有意義でしたが、夫とうまくいかず、娘が3歳の頃に離婚することに。そこに至る過程で心身ともに崩してしまい、初めてカウンセラーさんにお世話になりました。落ち込み悩む私にカウンセラーさんの「焦らず、将来のことをきちんと考えて取り組んだらどうか」という言葉が響き、私は自分の人生を考え始めます。

新たな道への挑戦

考える中で、大学で取得した教員免許を活かして教員になろうという思いが芽生えてきました。学生の頃には、自分が「先生」になるというイメージがつかず、私には早いな、まだできないな、そんな感覚で教員という候補はありませんでした。しかし年齢を重ね環境も変化した時、やってみよう、と思えたのです。

思い立ったら即行動の私は、まず母校に電話をして、お世話になった恩師に相談をしました。電話口で私の必死な思いを感じ取ってくれたのでしょう、恩師は翌日にすぐ会って話を聞いてくれたのです。そして偶然非常勤講師の枠に空きが出たことで、めでたく教員としての道をスタートすることができました。

1本の電話が私の運命を変え、新たな道が開けました。離婚した時に私は「娘に恥ずかしくないように、できることは何でもする」と決意していました。その決意と元来の行動力、これはこの後も私の人生に大きく関わってきます。

そしてもうひとつの運命。実はこの時電話を掛けた恩師が、後に夫となり現在に至ります。もちろんこの時はまだ、そんなことは想像すらしていませんでした。

教員としての歩み

他の仕事もしながら非常勤でスタートした教員の仕事。2年が経つ頃にはこの先も続けていきたいと思うようになり、専任教員での働き口を探し始めました。私の担当する社会科は男性教員の割合が多く、女性のようにライフステージによる休職や退職が少ないため募集が出にくい教科です。そんな時に、知り合いから情報をもらい、ある私立高校へ即応募しました。私の経験から考えると難しい状況だったと思うのですが、ここから定年まで勤め上げることになるのですから、その縁には本当に感謝しています。

その後専任教員として働き続ける中で、定年の2年前に体調を崩して仕事を1ヶ月休むことがありました。その時は教頭として4年目だったのですが、学校内での色々なことに巻き込まれてしまって。ちょっと外から見ればいいのに、私はすぐ自分ごとにして中に入って巻き込まれてしまうところがあるのです。その時、またカウンセラーさんにお世話になりました。もう仕事を辞めようと思い、マイナス発言を繰り返す私に「一番大事なことはこういう時に決めてはダメですよ。元気になってから決めましょうね。」と言ってくれました。お陰で踏みとどまることができ、ゆっくり休んでいいんだと思わせてくれたことに感謝しています。同僚や家族も支えてくれました。復帰後は教頭のポストを外れ、定年後は教員ではなく事務方で再雇用いただき働くことになりました。教員に未練はなく、もう戻ることはないと思っていました。

事務長として新たなスタートを切った私ですが…そうです、私は事務が苦手なのでした!新卒の時にわかっていたのに、なぜ選んでしまったのでしょうか。苦労は山ほどありましたが、若い人たちや教員たちもたくさん助けてくれました。私は本当に人に恵まれていると感じています。

その後は別の公立高校で副校長補佐という仕事もしましたが、現在、私はまた非常勤講師として教壇に立っています。自分から手離し、もう絶対戻ることはないと思っていた教員の仕事に。きっかけは、とある若い先生が急に退職することになり、その代替授業の話が出た時のことでした。なぜか、「私がやりましょうか?」という言葉が口から出たのです。自分でも驚きでした。

その時は事務の立場だったので代替教員にはならなかったのですが、その言葉が自分から発せられたことをきっかけに、教員への復帰の道があれよあれよと開けていきました。「あれ。私また教員やりたいのかも。」そう思った私はすぐに講師登録をし、タイミングよく話が進んで非常勤での教員復帰を果たしました。定年のタイミングで一度教員からスパっと離れ、別の立場から現場を見た数年間があったことで、気持ちに区切りがつけられたのかもしれません。今は改めて、教員というのはいい仕事だな、そしてまた来年も仕事が続けばいいなと思っています。

私はいつも、行動すること、そして人を頼ることでチャンスを手に入れてきました。生徒にも、「自分から手を挙げて行動しなさい。それが自分に返ってくるから。」と伝えてきました。不思議なもので、卒業して数年経った頃にこういう言葉を突然思い出してくれる生徒がいるのです。そんな連絡をくれて、1人の大人として接するような関係になった時は感慨深いものがあります。

キャリコンとして

キャリコンの資格を取ったのは、再雇用の事務に四苦八苦していた頃です。これから先どうしようかなと話した知り合いがキャリコンの資格のことを教えてくれました。「佐々木さんに向いているんじゃないかしら?」そう言われ、私はすぐに調べました。

社会科教員として得意な内容もあり、さまざまなライフステージの中で、人のキャリアに関わるのは興味深いと思いました。面白そう!とアンテナが動いた私は、すぐに講座に申し込んで勉強をし、資格取得を果たします。

そしてその後、ネットでたまたま目にした松田さんに「面白そう!この人、何だか気になる!」とピンときて勉強会に参加したことが、キャリアラボとの出会いでした。その頃はフル勤務だったのでキャリコンとしての活動はすぐにはできませんでしたが、その後、保護者支援の分野でのお話をいただき、面談などで保護者の方のサポートをしています。

また、今勤務している学校ではキャリコンの知識を取り入れた授業を行なっています。

家族のかたち

遡りますが、恩師である夫とは、私が専任教員になり職場が離れて少し経った頃に結婚しました。この時、娘は中学1年生。夫も私も再婚で子どもがいる、いわゆるステップファミリーです。夫の息子とは生活は別でしたが、私の娘、そして新たに誕生した息子。息子と娘には多感な時期に複雑な思いをさせ、苦労もあったと思いますが、徐々に私たち家族なりの形が出来上がっていきました。最近末の息子が結婚し、家族はまた新たなステージを迎えました。結婚式の日のことを思い出すと、とても穏やかで温かな気持ちになり、心から幸せだと言えます。私たち夫婦は子どもたちに恵まれ、支えられてきました。うまくいくコツなんて一概には言えませんが、近づきすぎない距離感がよかったのかなと思います。家族みんながお互いに「個人」として接し尊重している、そんな感じです。

これから

元来の行動力でこれまで突っ走ってきた私ですが、今は私にとって初めての感覚で、ちょっと止まってもいいかなと思っています。一方で、何か役に立てそうなことがあればまだできる、今十分幸せだけど、まだ枯れないという思いもあります。これまでの人生で、私は「時が満ちる」というタイミングがあると感じています。必要な時に、必要なものや人がパズルのようにピタッと合い動き出す、今はその時に向けての準備期間なのでしょうね。

今後もご縁がある限り教員は続けたい、まずは来年もまた教壇に立っていたいなと思っています。そしてキャリコンとしては、女性を支援したいという思いがあります。子育て、キャリアアップ、ステップファミリー、何か私の経験がお役に立てるようなことがあれば…さて何ができるでしょうか!?

振り返ると、私のこれまでの人生では、ターニングポイントで必ず誰かに助けてもらい導かれてきました。仕事は全て、人との縁で出会ってきましたし、壊れそうになった時は誰かが支えてくれました。そして、何でも聞いてくれる主人と、とても大人な子どもたち。本当に人に恵まれてきたと思っています。私が人に支えられてきたように、どなたかにとって私との出会いが何か意味のあるものになれば、こんなに嬉しいことはありません。

  • 投稿者松田 博文
  • カテゴリーわくわくキャリコン図鑑

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